モン・シャポー研究所について
YOSHIKO MIWA(三輪能子)の半生にとって、なくしては語れぬ、モン・シャポー研究所について。そして、師である西部房子とのストーリー。
モン・シャポー研究所のはじまり
戦後に流れ込んだ米国のファッションスタイルを乾いたスポンジのように吸い取った日本。
高度成長期には欧米をお手本に様々なスタイルも流行したが、”帽子”文化の成熟度はまだまだであった。
1967年、サロン・ド・シャポー学院(日本初の帽子専門学校)の講師であった西部房子により、六本木鳥居坂レジデンスに静かにひらかれたアトリエ、モン・シャポー研究所。
西部の講師時代の教え子であった三輪能子は当時23歳。弟子としてアトリエを手伝うようになる。
講師時代から続く「T.P.O.や装い全体を考えたコーディネートを楽しく」という帽子の楽しみ方は、所謂スタイリングの提案であり、斬新なファッションへのアプローチであった。
ファッション・・
流行の生まれる場所
西部と三輪の帽子作りの場は、徐々にファッショニスタのたまり場となり、女性誌・ファッション誌の編集者、スタイリスト、モデル、女優等々が日夜押しかけるようになる。
ファッション雑誌の編集者たちが、担当ページのために集めた服やアクセサリーをアトリエに持ち込み、西部と三輪に相談して最終スタイリングを決める光景も珍しくなく、コーディネートを何より「楽しむこと」と提案する、ファッションの楽しみ方の発信地でもあった。
西部のフィロソフィー、
“帽子は被る人が主役
被って始めてそのひとの個性が輝き
その人のものとなる
Mon Chapeau (モンシャポー/私の帽子)“
は、三輪にも浸透し、帽子作りに反映されていく。
転機となったのは、高田賢三がJUNGLE JAPを立ち上げる最初のコレクション。
いくつもの帽子メーカーやアトリエと取り組むも、米兵のアーミー帽子がどうしても気にらず、最終的に持ち込まれたのがモン・シャポー研究所であったという。(賢三が気に入ったのは言うまでもない。)
そしてモン・シャポー研究所は、
ISSEY MIYAKE、YOHJI YAMAMOTO、YUKI TORII、DCブランド全盛時代のBIGIの帽子等等、日本のファッション界のプレタポルテコレクションの帽子を数々手掛けるようになる。